感きわまるチャーターナイトの頃

その日は前夜祭の雨も上がり、新緑も一段と鮮やかに白鷺城を浮き上がらせた。50年前にさかのぼる。1950年(昭和25年)5月27日のこと。姫路ロータリークラブのチャーターナイトは午後2時から姫路商工会議所で厳粛に行われたのだった。そのあと会場を城内二の丸跡に移しての祝宴もこのうえなくバラエティに富んだ豪華さ。翌日の室津観光、製鉄所見学と、内容の濃いスケジュールを展開、来賓はもちろん、万端の準備を進めてきた会員一同、感きわまるクラブのスタートであった。

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チャーターナイト 手島ガバナー告辞

そもそもロータリークラブが日本に上陸したのは大正9年のこと。まず東京に、次いで大阪、そして同13年に3番目のクラブとして神戸が誕生した。(手続きの関連でRIの認証は名古屋に次ぎ4番目となる)

その後、兵庫県下でのロータリークラブは当分神戸のみで、ようやく昭和12年に西宮が創立。数年後には太平洋戦争となって、RIからの脱会、そして終戦を迎える。

戦後、日本の各クラブがRIに復帰を認められるのが昭和24年から25年にかけて。この時期、24年4月に復帰を承認された神戸クラブは早速その年の暮れ、県下3番目クラブとして姫路への働きかけを始めた。

神戸クラブの久米孝蔵、高木茂一の2人が何度も来姫、地元有志にクラブ設立を要請した。

当時はまだ戦後の混乱期を抜け切らず、その年の夏には下山事件、三鷹事件、松川事件と相次ぎ、一方水泳の古橋選手が世界新を、湯川京大教授がノーベル物理学賞を得たことで前途に希望を持たせるなど、世情は大きく揺れ動いていた。

この時期、姫路でも青少年の気持ちが不安定であり、このため奉仕の理想、社会活動等により、地域社会に貢献するためのクラブの方針が次第に地元に共鳴の気持ちを高揚させた。

翌25年1月にはキーメンとなった有川敬次(神戸銀行姫路支店長)稲井稔(神姫合同自動車専務取締役)斎木亀治郎(山陽色素社長)を中心に、2回にわたる設立準備会で、18名の準備委員を選び、神戸から直木太一郎副会長ら5人の幹部を招いてロータリーの詳細を勉強したうえ、2月初めには、神戸の例会場を実地見学。のちさらに10名の創立会員を推薦して準備を終えた。

かくて、ロータリーの創立の日に合わせ、2月23日を選んで、当クラブの仮発会式を行った。

この時の会員は準備委員と併せて28名。準備会長の有川が、会長になる予定だったが、発会式前に辞退された(同年5月2日には転勤のため退会)ので、副会長だった稲井が初代会長に、副会長には龍田敬太郎(龍田紡績社長)幹事に松浦十三日(姫路商工会議所常務理事)会計に今井重太郎(今井酒造代表社員)会場監督に竹田二朗(まねき食品社長)を選んだ。来賓には生みの親である神戸クラブから鈴木岩蔵会長、直木副会長ら6人を招いて、ここにクラブ誕生をささやかに祝った。

そして3月15日付で早くも当時の牛島ガバナーからRIへの加盟承認が伝えられ、創立会員一同の喜びはひとしおであったという。なお、創立間もなく5月23日の例会で新会員として作家の阿部知二が入会している。

さてRIの承認を得てスタートを切ったものの、当面の最大の課題はチャーター伝達式であった。昭和24年から25年にかけてのRI復帰の時期に五つの新クラブが出来たが、その一つが姫路だったので、先輩クラブのチャーターナイトを参考にする、という機会はなかった。

2代目会長龍田敬太郎は当時を振り返ってこのように書いている。

その年の4月、あたかも京都で第60地区(当時は全国1地区)の復興第1回の年次大会が催され、これを見学する機会を得た。そして先輩クラブの洗練された活動を目のあたりに見、大会の準備から進行、サービス等、何から何まで会員はもちろん、家族も含め、すべてが友愛に満ち、しかも清楚高潔な態度で行きとどいた活動ぶりは全く私どもの驚異であった。これがロータリーの精神であり、この実践がロータリアンの持つ誇りであると感銘を深くした次第と。

その後約1カ月後の5月まで、諸準備から式典、宴会まで、この京都大会に準じて進められた。3代目会長空地純一は10周年記念誌にチャーターナイトの思い出を詳しく述べている。

それによると、日程も過去10年間の当地方の天候統計によって、良いお天気になるはずの5月27-28日を決め、プログラム、会場の装飾、余興まで用意万端を整えて当日を待った。にもかかわらず、皮肉なことに前夜は雨、やきもきしたが、開幕間際にその雨もあがり、ようやく愁眉を開いたという。

午後2時、姫路商工会議所ホールには125人が参集、花と万国旗が飾られたステージ。手島ガバナーを迎えてチャーターが伝達され、祝詞、祝電披露ととどこおりなく式典を終了。あと白鷺城の見学。二の丸跡での市長主催の茶菓接待。続いての祝宴では鯛の浜焼きに舌つづみを打ち、京都茂山千五郎社中の狂言ほか手品、小唄、手踊りと続いた。

翌日は五月晴れのもと、会員の家族ともどもバスで室津へ。浄蓮寺、室の明神を参詣、大小の船が行きかう瀬戸内国立公園の絶景を賞でる。壺網見物ののち広畑へ。富士鉄の製鉄所を見学して夕刻、万歳を三唱して解散した。